ミライにつながる建設情報コラム

第6回 エピソード0|伊藤組と札幌駅

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これまで5回にわたって、伊藤組と歴代札幌駅とを結ぶ縁についてご紹介してきましたが、今回は再び北海道開拓期へと時代をさかのぼり、そもそもどのようにして札幌に鉄道駅が開設されることになったのかというお話をしていきたいと思います。

開拓使本庁舎

石炭輸送の役割を担うべく北海道初の鉄道が誕生

日本で最初の鉄道計画は、明治2(1869)年に明治政府によって朝議決定された「東西両京間の幹線」と、この幹線建設に必要な「3支線」でした。政府はイギリスから建築師を招き順次着工し、明治5(1872)年に新橋(旧・汐留)-横浜(現・桜木町)間、同7(1874)年~10(1877)年に神戸-京都間、同13(1880)年に京都-大津間の各支線を相次いで開業しました。

北海道最初の鉄道はこれらの鉄道とは全く異なるコンセプトに基づいて計画されました。開拓使が管轄する官営幌内炭鉱で採掘された石炭を搬出するという役割が求められていたのです。当初は三笠にある幌内炭鉱から石狩川沿いの幌内太(ほろないぶと)まで鉄道を敷設し、幌内太で鉄道から川船に石炭を積み替える計画が立てられました。石狩川から川船で小樽港まで運搬し、小樽港で再度汽船に積み替えるという流れです。しかしながら、開拓使は招いた外国人技師による調査報告から、当初の石狩川水運計画を取りやめ、鉄道を小樽港まで直通させることを決めました。その結果、幌内鉄道は札幌を通ることになり、札幌駅が設置されたのです。幌内鉄道は石炭輸送の目的で建設されましたが、明治15(1882)年に小樽手宮-札幌間の鉄道が開通したことは、本府建設着手以来、願ってもかなわなかった道都札幌と海の玄関口である小樽とを結ぶ大動脈がいきなり完成したということであり、その後は鉄道が北海道の開拓を先導する役割を果たすこととなりました。

黒田清隆が着手した幌内炭鉱開発と鉄道敷設

幌内炭鉱開発には、北海道開拓使のトップとして手腕を振るった黒田清隆が尽力しました。明治3(1870)年、新設の樺太開拓使次官に任じられた黒田清隆はロシアの圧力が増す樺太を見限り、北海道開拓に本腰を入れることを論じた建議書を明治政府に提出しました。いわゆる「10月建言」はそのまま採用され、黒田は北海道開拓使次官(のちに開拓使長官)に任命されます。この建議書の中では北海道における開拓使10年計画が提案されており、明治4(1871)年から実行されることになります。開拓使が最初に力を注いだ札幌本府開設や道路建設などインフラ整備については成果があったものの、後半に行われた移住施策としての開墾・農地開拓事業や、官営工場によるさまざまな製造事業においては、投下資本に見合うだけの成果を挙げることができませんでした。

そこで北海道開拓の起死回生策として黒田が着手したのが、炭鉱開発でした。古くから、幌内川上流の山中に石炭層が露出していることは知られていましたが、明治5(1872)年にそこから産出した炭塊が開拓使に持ち込まれたことをきっかけに、開拓使の榎本武揚やアメリカの地質鉱山技師であるベンジャミン・S・ライマンによる調査が行われ、有望な炭層の存在が確認されたのです。ライマンは幌内炭田の石炭埋蔵量は1億トン(現在の推定量は60億トン)と推定し、その後、中央政府よって調査や視察が行われたことで幌内炭田の有望さが認められ、明治9(1876)年に開拓使による幌内炭田開発事業の着手が内定しました。この後、事業計画は黒田の西南戦争出征により一時中断しましたが、明治11(1878)年3月、黒田は太政官に幌内炭鉱開発の予算交付を上請しました。榎本が主張していた、幌内炭鉱の石炭を鉄道と石狩川水運を使って小樽港へと運搬する計画に沿い、幌内炭鉱-幌内太間の鉄道建設費とともに、石狩川水運用として幅広平底の曳舟荷船建造費を計上したものです。この計画は同年5月にそのまま許可され、「開拓使10年計画」の予算とは別枠で、幌内炭鉱開発と幌内鉄道建設がスタートすることになりました。黒田は当初、鉄道建設には自身が属する薩摩藩を挙げて反対していましたが、明治4(1871)年の米国出張の際、鉄道による交通や物流が大きな原動力となっている様子を目の当たりにして鉄道推進派に変わったといわれます。

鉄道と水運の計画立案に携わった2人の外国人技師

幌内鉄道建設と石狩川水運路建設には、それぞれ外国人技師が招かれました。

鉄道建設においては、開拓使からアメリカ・ペンシルバニア鉄道社長に人材派遣を要請。彼の推薦によって同社の土木技師を務めるジョセフ・U・クロフォードが、明治11(1878)年12月13日に札幌へとやってきました。この時、黒田は札幌で初めて冬越ししようとしていたこともあり、クロフォードと対面。大切なクリスマスの日程も度外視して駆けつけて来たクロフォードの心意気を、大いに感じたことでしょう。しかし、年明け早々に開拓使庁舎の焼失によって急遽黒田が帰京することとなります。そのようなことがあって少し間の空いた明治12年2月、黒田はクロフォードへ通訳を介して次のように指示を出したと伝えられています。

「これから建設しようとする鉄道は主に炭鉱開発に利用するもので、資金が多くないため費用を抑え、安価でシンプルなものとしなければなりません。幌内鉄道の路線は全道に造られる鉄道路線と連絡させるべきですから、経路についてはこれらのことを踏まえて考えてほしいのです。現在はまだ雪深く幌内炭鉱付近の測量は難しいので、主任者と今後の計画を立てた後、ここから小樽へ至る沿道や小樽港を見てきてください」(※現代語による要旨)

このような黒田の幌内鉄道計画論は、クロフォードを大変発奮させたに違いないことが想像できます。目前の炭鉱鉄道こそ質素低廉を求めていますが、はっきりと全道の鉄道建設を想定した上で最初の鉄道であると言っているのです。また、クロフォードへの調査指示として札幌から小樽へ至る沿道と小樽港を見てくるように言っていますが、黒田の脳裏に札樽間に鉄道を建設するなどという考えがあったとは思えません。しかしながらクロフォードには、小樽港に直通させる鉄道ルートを暗に示唆しているように聞こえたかもしれません。クロフォードの考えとしては、まずアメリカ製の鉄道建設資材や車両を積み込んだ汽船を横付けできる港が必要であり、鉄道の建設はその港から内陸に向かって進めていくべきものでした。通訳を介した黒田の口達を受けたクロフォードが札幌-小樽間の鉄道ルートの検討もあり得ると感じたとすれば、小樽港を視察した瞬間、彼はそこに延びる石炭積込桟橋をイメージしたことでしょう。

その後クロフォードは鉄道路線調査を行い、同時に開拓使の石狩川水運を経由する石炭運搬計画の弱点を指摘します。大洪水を見て石狩川水運は困難と考えたクロフォードは、陸上交通の難所とされていた張碓-銭函間において、明治12(1879)年11月に、開拓使が整備していた海岸線沿いの人馬道を低予算かつ迅速な工事で堅牢な馬車道として完成させ、この馬車道を使った幌内-小樽手宮間の鉄道建設が可能であることを証明しました。

一方、開拓使は石狩川水運利用のために、当時在ロシア公使を務めていた榎本武揚が推挙したオランダ水利技師・ヨハン・ゴダルト・ファン・ゲントを招聘していました。ゲントは明治12(1879)年2月に札幌に到着し、早速石狩川の深浅調査に取りかかって石狩港改修計画を作成しました。その直後の4月、大雨によって石狩川が氾濫。特に河口地区の被害は大きく、堤防が破壊されて人家30戸が全滅しました。ゲントはこの惨状に驚き、計画を変更して新たな河口開削案を提案します。この計画は、もはや石炭輸送路の確保という課題を超えて洪水対策ともいうべきものでした。同年9月には、またもや同様の大洪水が発生。これに対してゲントの現実的で有効な洪水対策は提案されず、開拓使は石狩川水運を利用する石炭輸送を断念せざるを得なくなったのです。当時は石狩川が日本最大規模の集水面積(流域面積)をもつ大河川であることは知り得なかったと思われますが、ゲントも予想をはるかに超える石狩川の猛威には、太刀打ちできないことを早々に理解したことでしょう。

クロフォードとゲントの動きを見ていた黒田は、当初計画であった鉄道と石狩川水運を併用する石炭運搬計画は不可能であると悟り、クロフォードによる馬車道を使って幌内炭鉱と小樽手宮を鉄道で直接結ぶ計画に変更。それに伴う費用増額の申請も合わせて政府の承認を得ることができました。

黒田清隆

幌内鉄道の開通と黒田、クロフォード、ゲントのその後

明治12(1879)年12月、開拓使はクロフォードを幌内鉄道建設の技師長に任命し、手宮側から測量を開始しました。同月にクロフォードは鉄道車両や器材の買付けのためアメリカへ出張しましたが、留守中の工事施工の段取りも十分に済ませていました。クロフォードによる鉄道計画は、小樽港西端の手宮海岸を140坪にわたって埋め立ててそこに汽船を横付けする桟橋を設置して海に突出させ、この桟橋を起点として幌内方面へ向かって鉄道工事を進めるというもの。鉄道が開通すれば、この桟橋が貨車から汽船への石炭積込設備となる想定です。鉄道建設は、手宮から幌内に向けて順次路盤工事が進められ、明治13(1880)年1月から5月にかけて第1隧道(水天宮裏)、第2隧道(住吉)、第3隧道(若竹町)と順次掘削に着手していきました。9月にはアメリカで調達した鉄道器材を載せた帆船が手宮に入港。10月1日に桟橋に帆船を横付けした時点で工事方法が変更になり、桟橋上から鉄軌条の敷設を開始して完成している路盤上に延伸させ、この軌道を使って資材を運搬することにした結果、工事が順調に進むようになりました。幌内鉄道の軌道敷設の速さは1日1マイル(1.6km)にも達し、東京や横浜でも新聞紙上を賑わすほど話題となりました。

その後、明治13(1880)年11月11日に手宮-銭函間の汽車仮営業を開始し、20日には札幌の空知通(北六条通)に設置された仮停車場まで、35.9kmの軌道敷設を完了。同月28日に小樽手宮-札幌間の汽車運転式を盛大に挙行しました。日章旗と星条旗を機関車先頭部分に掲げた弁慶号は、客車3両をけん引して午前9時に手宮を出発し、正午に札幌到着。機関士はアメリカ人で、客車にはクロフォードらが乗り込み、札幌仮停車場には開拓使官吏や札幌住民が待ち受けていました。この時の停車場は、手宮、開運町、銭函、札幌の4カ所で、乗降客がある時に停車するフラッグステーションは軽川、朝里、琴似の3ヵ所にありました。この時の札幌駅は最小限の設備だけの仮停車場です。駅舎はこれより遅れて明治15(1882)年1月に完成しました。

こうして小樽手宮-幌内間を結ぶ幌内鉄道は明治15(1882)年11月13日に全通し、この日に初めて幌内炭鉱から小樽手宮に向けて石炭を満載した列車が走りました。しかしこのとき、開拓使は同年2月ですでに廃止されていたため黒田は内閣顧問に退いており、クロフォードも、器材調達のために渡米し、そのまま雇用契約が終わってしまった後のことでした。幌内鉄道建設の最大の功労者である2人が共に、この一番列車を見られなかったのは、さぞかし残念であったろうと思います。

幌内鉄道開通式は、明治16(1883)年9月17日に小松宮彰仁親王ご臨席のもと挙行されました。参列者は、大山陸軍卿、曾我参謀本部次長、井上勝鉄道局長以下官民500名ほど。ここに黒田は招待されていましたが、クロフォードの姿はありませんでした。

アメリカに復帰したクロフォードは、ペンシルバニア鉄道副社長補佐役やニューヨーク連絡鉄道技師長、また、ペンシルバニア鉄道顧問を務め鉄道人生を全うしました。その間も日本との縁は続き、日本向けの鉄道資材の調達に協力を惜しまず、日本から渡米した留学生の面倒をよく見るなど日本との交流を続けたといいます。そして大正13(1924)年、フィラデルフィアで83歳の生涯を閉じました。

一方、ゲントは、世界最高水準の利水技術者として招かれたものの、原始河川の石狩川には手の付けようがありませんでした。開拓使が石炭の石狩川水運利用を取りやめ、鉄道直通に変更した後、失意のあまり体調を崩して帰国がかなわないまま横浜に逗留していました。そして明治13(1880)年10月、北海道で幌内鉄道の機関車試運転が行われていた頃、ゲントは横浜の病床で息を引き取ったそうです。

幌内鉄道路線図

次回はいよいよ最終回。現代の伊藤組が札幌駅および札幌のまちとどうかかわってきたか、また、歴代社長がどのような信念をもって仕事に打ち込んできたかを改めてご紹介して締めくくる予定です。

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