ミライにつながる建設情報コラム

第3回 4代目駅舎②|伊藤組と札幌駅

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昭和12(1937)年に始まった日中戦争が長期化し、太平洋戦争、第二次世界大戦と、8年間にわたって日本が経験した戦争の時代を乗り越えて、伊藤組2代目店主・伊藤豊次はこれから先の経営と従業員たちについて思いを深めていきます。昭和27(1952)年に開業した4代目札幌駅舎は「民衆駅」という位置付けになりますが、さて、建て替えにはどのような背景があったのでしょうか。

4代目札幌駅舎複合建物の全景(昭和40年当時)

昭和22年の年頭挨拶に見る「誠心誠意」と「責任観念」

昭和12(1937)年、盧溝橋事件を発端として日中戦争が始まりました。昭和13(1938)年には「国家総動員法」公布。鉄鋼配給や木造建築が統制されたことによって民衆の経済活動は大きく制限され、軍需関連工事だけが増大していきました。この間、豊次は昭和13(1938)年に札幌土木建築業組合長、同19(1944)年には日本土木建築統制組合理事に就任し、戦時下の困難に直面した建設業界をリードする役割を担いました。

伊藤組の従業員も兵員として招集され、その数は昭和13(1938)年に13名、同18(1943)年に29名、同19(1944)年には36名に達しました。残された従業員たちは軍需建設工事に忙殺されましたが、「組報」によれば、受注工事の掲載は昭和19(1944)年の暮れを最後に同24(1949)年まで皆無となっています。また、同20(1945)年に入ると伊藤組の鉄鋼部、木工部、車両工場の生産施設はすべて軍事工場として転用され、従業員もその作業に従事していました。

昭和20(1945)年、終戦を迎えるとともに兵員応召者が徐々に復員してきました。翌21(1946)年の末までに40名近くが戻り、豊次は全員を再び従業員として迎え入れました。
年が明けて昭和22(1947)年の仕事始め、豊次は組報に、「伊藤組の信条である『責任観念』のもと、日本再建のために懸命に働くことを肝に銘じよう。伊藤組は誰が何といおうと私の伊藤組である。私は先代の亀太郎と指導してくれた田中銀次郎の意志を受け継ぎ、新しい思想と時代の情勢に合わせた新しい構想をもって勇往邁進すると誓う。新しい考えを持ち、旧来のやり方に対して意見を述べるのは自由だがそれを聞き入れるも聞き入れないもまた私の自由である。不服のある者は伊藤組に無理にいることはないし、いるのであれば私の命令に従わなければならない」と店主挨拶を掲載しました。これは、豊次が在任した大正12(1923)年から昭和31(1956)年の間で唯一のこと。この年は病み上がりのため出社せず、例年のように皆の前で挨拶できなかったこともあるかもしれませんが、たいへん珍しいことでした。

現代に生きる皆様からすると、豊次が従業員に絶対服従を強いているように感じるでしょうか。豊次は恩人・田中銀次郎を昭和12(1937)年に、父・亀太郎を同19(1944)年に亡くしています。猛烈な「責任観念」の実践者であった2人の背中をずっと追いかけてきた豊次にとって、この時期に抱えていた喪失感は非常に大きなものでした。「自分は彼らのようにやっていけるだろうか」と悩んでいたかもしれません。豊次が虚栄・虚飾を嫌う「誠心誠意」の人であったのも、ある意味こうした謙虚さに由来するものではなかったかと推測されます。また、戦争に負けて世の中がどうなるかわからない中で、「200人もの従業員とその家族を養っていけるのか」「偉大な先代亡きあと皆の心を掌握していけるのか」といった経営トップならではの孤独感を味わっていたことも想像に難くありません。「従業員たちも先の見えない不安に浮足立っている…ここは自ら彼らに語りかけることで組織の結束を強めようではないか」───「誠心誠意の人」豊次は、そう考えたのです。

これを踏まえてもう一度挨拶文を読んでみると、受け取り方が変わってきます。従業員に対して、諸々の心配事や流言飛語にとらわれず伊藤組の下に集結することを呼びかけているのです。そして、店主である豊次自身が不退転の決意でその先頭を務めると宣言している…そう読み取れます。豊次はまた、亀太郎が実践してきた「責任観念」に基づく旺盛な行動力を伊藤組の従業員全員が身に付けなければならないと考えていました。当然自ら率先して模範となる覚悟は持っていましたが、まずは組報で「責任観念」こそが伊藤組の信条であると念を押しました。「誠心誠意」と「責任観念」は、今でも伊藤組の社是として社員一人一人の心に刻み込まれています。

昭和22年正月の組報
旧伊藤ビル前にて豊次と社員

伊藤組分社化と建設業界を繁栄に導いた「誠心誠意の人」

豊次は、終戦直後の昭和21(1946)年に伊藤組工事部を「伊藤組土建株式会社」とし、同22(1947)年に同鉄工部を「伊藤組鉄工株式会社」、同木材部を「伊藤組木材株式会社」として、それぞれ分社化しました。亀太郎から豊次へと受け継がれた会社はこれまで個人所有のものでしたが、株式会社とすることで、株主により民主的に会社経営を行う姿勢を広く明らかにしました。業界的にも社会的にも、伊藤組はいち早く近代的で民主的な会社組織体制を整えたといえるでしょう。

「伊藤組小史 73年の歩み」には、会社の創業年に生まれて一緒に70代を迎えた豊次の人となりが次のように記されています。
「伊藤豊次は難事に直面して聊(いささ)かの乱れを見せず、泰然として動ぜず信念に徹した主義主張は些末(さまつ)の妥協をも許さなかった。終生謙虚に而(しか)も自己を処するに誠に厳、清廉かつ真直そのものであった。初代事業を継承して30有余年、戦前戦後の難局を克服してこれが経営の合理化を図り、責任観念の徹底と共に事業の近代的運営に努力、飛躍的な事業の伸長発展を招来せしめた。外にあっては北海道建設業界の総帥として幾多の難関を乗り越え良く業界を今日の繁栄に導いたばかりでなく、日本建設業界の重鎮功労者として長くその名をとどめるものである」。
豊次は昭和21(1946)年に貴族院議員に勅任されましたが、翌年3月に貴族院が廃止された後の参議院選挙に出馬することはありませんでした。また、同時期に札幌商工会議所会頭職にも選出されましたが、昭和24(1949)年の改選時にも続投の意志は持たず辞任。自ら公職を求めることはせず、請われて就任した数多くの公職については「誠心誠意」務めました。このようなところからも豊次の謙虚な姿勢や周囲の人々に慕われる人柄がしのばれます。

全国で9番目の民衆駅として誕生した4代目駅舎

戦後の地方自治体の発展と都市の復興には目覚ましいものがあり、都市の玄関口として駅前通りなど都市側の整備が進みました。一方、昭和24年に国鉄となった鉄道側としては輸送力増強のための改良・改修費用がかさみ、駅舎の整備にはなかなか手が回りません。こうなると都市側から、まちづくりの象徴的建築物として駅舎整備を推進しようとする動きが出てきます。国鉄の負担を軽減するために地元自治体が駅舎整備費用の一部を負担する協議が行われた結果、長崎駅など数駅において地元自治体が改修費用の30~50%を出資したという事例があります。しかし地方自治体の寄付行為にも限界がありますから、代わりに共同事業方式による駅舎整備はどうかという発想が生まれました。例えば、駅業務に使用する床の部分を国鉄が負担し、待合室やトイレなど共用の床の部分は国鉄と自治体が折半、店舗が入る床の部分を自治体が負担するというようにして、開業後は店舗の賃貸収入が自治体へ入るという仕組みです。
このように、自治体などの資金を導入して建設する駅は「民衆駅」と呼ばれました。民衆駅の第1号は東海道本線の豊橋駅(愛知県)。これに続く民衆駅が次々と生まれ、全国で9番目となったのが4代目札幌駅です。

明治41(1908)年に開業した3代目札幌駅舎は旅客輸送、貨物輸送の需要拡大を見込んで建てられましたが、早々に手狭となり、たびたび模様替えがなされました。昭和8(1933)年にはのちの「みかど食堂」を開設するなど利便性の向上を図ったものの、築40年を超えてくると老朽化が著しくなり、札幌市長の要請で民衆駅として建て替える計画が具体化しました。
この計画では、札幌市が調達した民間資本約1億円を駅1階の公衆利用施設の半分と地下階の店舗部分全部の原資として国鉄に納入することになっており、国鉄は地下階部分に札幌市が推薦する業者を出店させるという案が採用されていました。当時の見方として、駅の地下では新聞と牛乳くらいしか売れないだろうと集客に不安を覚える声も上がりましたが、73の出店業者が集まって事業組合を発足させ、地下店舗全体が秩序と品位を保つよう「デパート方式」を採用。これが昭和27(1952)年に開業し、その後長年にわたって札幌駅利用者に親しまれた「ステーションデパート」です。結果的には、駅直結、年中無休で市中の商店より営業時間が長いことなどが強みとなり、地下店舗は順調に売り上げを伸ばしていきました。

4代目札幌駅舎平面図

困難を伴った大規模コンクリートビル建設

4代目駅舎の新築と3代目駅舎の解体は、伊藤組土建が単独で請け負いました。昭和26(1951)年9月から同28(1953)年3月まで、工事の過程を27段階に分けて新駅舎の民衆駅部分(札幌市負担部分)を完成させ、これと並行して3~4階部分に札幌鉄道管理局が入るための工事や、全国初の駅地下映画館「テアトルポー」の建設も進められました。

4代目駅舎の外観は、機能主義・構造主義を強く打ち出した「20世紀モダニズム」を体現するものでした。地震の多い日本において実用的な耐震設計がなされ、非芸術的な鉄筋コンクリート造り。このような構造は全国の民衆駅の多くに採用されました。4代目駅舎は昭和27(1952)年10月に完成。亀太郎が建設し、明治を象徴するたたずまいを見せていた3代目札幌駅舎は解体され、豊次が建設し、近代的なイメージを漂わせる4代目札幌駅舎が人々を迎え、送り出すようになりました。

このあと第二期工事として、駅舎西側に国鉄北海道支社と札幌鉄道管理局との統合庁舎を増築する作業が進められ、これも伊藤組土建が受注して昭和30(1955)年10月から同32(1957)年5月の工期で完成させています。これをもって4代目札幌駅舎は、鉄筋コンクリート造(中央部分は鉄骨鉄筋コンクリート造)、直接基礎、地下1階及び屋上アスファルト防水の地上4階建て、正面間口162.0m、奥行き18mという大規模な建築物となりました。

基礎工事においては、当時珍しいアメリカ払い下げのバックホー(油圧ショベル)やブルドーザ、ドラグライン(掘削機)などを導入しましたが、大方の作業は旧来の人海戦術で行ったというから驚きます。地下掘削部分の仮土留には、札幌鉄道管理局の職員が各駅から集めたレールを使用。5mほどしか掘っていないのに大量に水が湧き、駅前のマンホールから排水が噴出して道路が水浸しになったり、北大植物園の湧き水が涸れてしまったりする騒ぎも起きました。コンクリート打設が冬期にかかると、貨車で運ばれてきた骨材が凍って塊になっているので、これを山積みにしてシートで覆い、ボイラー室から蒸気を引いて溶かすという苦労もありました。打設の時には、石油缶に炭火を入れて現場に配置し、未施工のコンクリートが固まらないように養生管理しました。実は、これが北海道で初めての大規模な鉄筋コンクリートビル建設。幾度も想定外の困難に見舞われながらも、予定通り完成させた当時の作業員たちの仕事はまさに、伊藤組土建の信条たる「責任観念」の体現でした。

建築中の4代目札幌駅舎

時代は徐々に移り変わり、4代目札幌駅舎が完成した4年後、伊藤組土建の経営は豊次の息子である伊藤義郎が引き継ぎます。4代目駅舎を中心に商業施設が増えていき、賑やかで華やかな時期を迎える札幌のまちの様子と共に、5代目札幌駅舎の開業までを次回のコラムでご紹介します。

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