ミライにつながる建設情報コラム

第5回 6代目駅舎|伊藤組と札幌駅

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昭和が終わりに近づいて平成へと移り変わっていくとき、札幌駅周辺もまた何度目かの転機を迎えます。北口および南口広場の整備と、「アピア」や「JRタワー」、そして現在の札幌駅6代目駅舎の誕生。複合施設としての「駅」はますます多目的に活用される場となっただけでなく、そこを行き交う人々のさまざまな思い出が刻まれた「まちの象徴」という役割をも担っていくのです。

JRタワーおよび大丸百貨店の建築工事(平成13年9月)

駅利用者の交通拠点となる札幌駅北口広場の整備

札幌駅北口には、昭和41(1966)年以来の北口広場(9800㎡)がありました。札幌市は、昭和56(1981)年の鉄道高架化を機に北口広場の拡張(1万9500㎡)を決め、同時に広場地下部分を立体的に利用する計画を立てました。北口広場に札幌駅へのアクセス交通を集約することによって南口側の道路交通の円滑化を図り、以前から慢性的に発生していた札幌駅前の交通渋滞を解消することが狙いでした。北口広場にはバス発着場、タクシー乗降場(タクシープール40台分)、自家用車乗降場、駐輪場建物2棟、交番、水を利用した憩いの施設を配置。地下部分には200台分の地下駐車場と歩行者専用地下道のほか、北区周辺道路の積雪対策として地下融雪槽が設けられ、高度利用されています。

北口広場の地下施設工事は平成6(1994)年から平成9(1997)年度にかけて伊藤組土建を含む3つの特定共同企業体(構成会社10社)が施工。平成6(1994)年10月、札幌市長と義郎をはじめ関係者の出席のもとに安全祈願祭が執り行われました。都心部での大規模工事であるため、周辺の交通流動に支障が出ないように施工計画は慎重に立てられました。歩行者専用地下道を新設する北口広場を囲む西3丁目通、北8条通、西4丁目通においては道路覆工を行って人や車がいつもどおりに通れるようにし、札幌駅北口の鉄道高架橋に対しては、工事による不具合が生じないようしばしば点検を行うといった具合に、現場外への影響にも配慮して作業が進められました。

駅と都市とを緩やかにつなぐJR札幌駅南口広場の誕生

昭和63(1988)年に完成した札幌高架は、従来の線路の北側に新たに用地を取得して建設され、線路跡地は将来の新幹線用地として確保されました。そのため、5代目札幌駅の南側には旧4代目駅舎と在来線跡地が残ることに。このエリアは、JR北海道が南口広場等用地、国鉄事業団が処分用地、札幌市が道路等というように土地所有権が3者に分散していたので、そのままでは土地利用が困難な状況でした。札幌市は、平成4(1992)年に「札幌駅周辺地区整備構想」を策定。これに基づいて土地の有効利用を図るため、各所有地の位置を変更して所有者ごとに土地を集約することと、南口広場を拡張整備して駅前交通を円滑にすることを目的とする「札幌駅南口土地区画整理事業」に、平成5(1993)年から着手しました。平成8(1996)年には旧4代目駅舎を撤去し、3者各々の所有地を集約。南口広場は、JR北海道所有の約1万2100㎡から、新たな道路用地分を足した約1万9000㎡に拡張されることになりました。拡張工事は平成10(1998)年に着工し、平成12(2000)年3月に新たな南口広場が完成。5代目札幌駅においては北口広場を交通広場、南口広場を人の広場とし、駅に大規模な憩いの空間をしつらえたのです。こうした札幌市の画期的な取り組みにより、今なお札幌駅南口広場は全国的にも珍しい人の広場として貴重な都市空間となっています。

札幌駅西コンコースを南側へ向かうと、JRタワーのアトリウムを通って南口広場に出ます。正面方向に西4丁目通を見通す位置に立つと、御影石の列柱が南北の方向性を強調しているように並び、まるで札幌市の都市軸を表しているようです。歩みを進めると、左側にJRタワーの温度計塔と旧エスタの白い壁面。そしてすぐにこれを遮る小山のようなガラスドーム(アピア地下街連絡口)が現れ、右側に目を移すと大丸百貨店。中世ヨーロッパを思わせる背の高い円柱と、その先に連なるコリドールの天井がクロスアーチ様の連続を見せている造形が見事です。さらに進むと両側が開けて、左手は「牧歌の像」を囲む休憩スペース「いこいの広場」、右手は大きな催事広場空間に。この左右の広がりを見渡した時、札幌駅南口広場のコンセプトである出会い、ふれ合い、旅立ちの滞留空間「人の広場」が実感されるのではないでしょうか。「牧歌の像」は、北海道鉄道開業80周年を記念して建立された5基のブロンズ像で、旧4代目駅正面に据えられていたものが移設されました。これも札幌駅が持つ記憶のひとつです。

列柱のあたりから西4丁目通を真っすぐに見通すことができます。中央分離帯にはオオバボダイジュの樹列がずっと続いていて、その中でも手前の大きなハルニレが目立ちます。この通りは、岩村通俊による開拓使本府配置計画において、本府正面に沿う本通り(小樽通)として、ほかの道路よりも広く20間の幅員で造られ、先は遥か中島公園まで通じています。視点を近くに戻すと、北5条通の道路際に1対の大きなエゾマツの門柱が立っているのに気づくでしょう。何かの遺構の一部のようにも見えるかもしれませんが、実はアートモニュメント。エゾマツは蝦夷地の原生林を代表する樹種ですが、人里には根付かないといわれています。このエゾマツが、旅立ちの背景として、また、帰還や来訪を迎える門として、まるで北海道(蝦夷地)の出入口であるかのように屹立しているのです。

南口広場の地下に開業した大規模地下街「アピア」

一般的に地下街とは、地上部の動線を補って整備される公共の地下歩道や広場とこれに面する店舗などを意味しています。駅前広場に設けられる地下街は平面的な広がりが大きく、駅周辺に集積している商業施設を有機的につなぐ重要な役割を担っているともいえます。

札幌駅南口には旧駅前広場の地下部分に既存の地下街がありましたが、この一部は防災の新基準に不適格となっている箇所もあって改善が必要でした。そこで、JR北海道が札幌駅南口広場拡張に伴って地下街を新設するのに合わせ、新設地下街と既存地下街を一体的に再整備することになりました。旧地下街の防災新基準不適合部分を解消し、新設地下街部分と一体化させて全面改装。平成11(1999)年10月に新たな札幌駅南口地下街「アピア」が誕生しました。新設工区約8100㎡は、伊藤・札建・清水・熊谷共同企業体が施工。中央エリアの工事は、旧札幌駅地下コンコースに使われていた地下鉄防護RC版がかなり堅固で難渋したものの、予定通り2か月半で掘削を終了し、6か月で躯体を完成させました。改修工区は約1万9600㎡で、こちらは伊藤・大林・大成・鉄建・JRビルト共同企業体が工事にあたりました。この工区は平成11(1999)年3月の商業施設閉店後から工事がスタート。仮設通路の確保を優先しながらの旧設備撤去工事は粉塵対策等に予想外の時間を要したために約2カ月間かかりましたが、6月からの既存躯体の補強工事(炭素繊維シート巻き)を短期間で完了させたことで、その後は計画通りの工程で進捗しました。9月に入って新設工区、改修工区ともに工事が佳境を迎えるなか、9月後半には許認可機関による完成検査を受け無事通過。9月23日から新地下街の各ショップへの商品搬入を開始し、予定通り平成11(1999)年10月の開業にこぎつけました。

アピア開業式

「街の記憶」「駅の記憶」を再現する北海道の玄関口

土地区画整理事業による換地処分によって、西側に大画地となった国鉄事業団用地は「建物提案方式」で売却処分が行われることになりました。この方式は、都心部に生じた利用価値の高い処分地について、土地投機などを防ぐために建物計画を審査して落札者を決定するというやり方です。JR北海道は大丸百貨店と共同で建物計画を立て、平成9(1996)年3月に事業団の提案募集に応募し、落札しました。提案内容は、西側に百貨店を新築し、東側にある既存の駅ビル「エスタ」(そごう百貨店)を2つの核として、その間をファッションと飲食を中心とする専門店街の中層棟で結び、中層棟の最上階には道内最大規模のシネマコンプレックスを組み入れた2核1モールを形成するというものでした。東端の高層棟にはオフィス・ホテル・展望室を重ねた大規模な複合商業施設とするとしたこの建物計画は、接道条件、回遊性を求める中層棟の商業施設と眺望性を重視する高層棟のホテルやオフィスなど各用途の規模、利用者動線の独立性、バック動線の確保など種々の難要素が精査されつつ調整されていました。そして、JRグループが目指した包括的なコンセプトが「『駅らしい駅』の創造」でした。

平成13(2001)年に臼井幸彦氏が著した「鉄道駅の機能複合化に関する都市論的研究」では、「駅らしい駅」を次のように論じています。

「世代を超えて駅は旅発ちと帰着の場所、また毎日の始まりと終わりの場所であり、人々は喜怒哀楽を抱えて離合集散していく。その繰り返しの中で、いつしか駅は人々の思い出の背景になっている。街はより高い経済性を求めて変化していく。街の要所で、また駅においてもなおさら商業化が著しい。こうした変化を宿命とする街において、駅は人生の想いでの場所として最も相応しい。駅には、時代を越えて変わらない不変性(記憶)が必要である。」

「駅の不変性」の基本的要素とは何でしょうか。大学生を交えた聞き取り調査なども行って、JRの開発プロジェクトメンバーがイメージを膨らませ、たどり着いた結論は「『街の記憶』と『駅の記憶』の再現」でした。

街の記憶とは何でしょうか。明治14(1881)年に初めて2代目札幌駅舎が西4丁目通の北側突き当りに建設されて以来、120年余にわたってそこに札幌駅舎がありました。その駅の後ろには常に広い空がありました。駅舎は代々変わりましたが、不変だったのが、駅舎の屋根の稜線が空を水平に画した景観です。西4丁目通の突き当りに建設する新たな複合商業施設も、私たち道民・市民が長年培ってきた街の記憶、水平な稜線を踏襲しなければならないはずです。中層棟・高層棟の建物配置については種々の意見がありましたが、駅の正面は中層棟とし高層棟は東側に控えなければならないのです。

駅の記憶とは何でしょうか。明治14(1881)年の2代目駅舎、明治41(1909)年の3代目駅舎、昭和26(1951)年の4代目駅舎、平成2(1989)年に開業した5代目駅舎(北口)、これらの駅舎に共通する造形とは何でしょう。駅舎は代々公共建築として一定の全国的な統一性をもって造られてきました。その根源的な要素は、正面性、左右対称性、安定性なども挙げられますが、第一には駅の旅発ちを想起させるゲート性です。これらの要素を、3代目駅舎をモチーフとして、JRタワー正面に「駅らしい駅」の記憶として落とし込みました。

もう一つ、駅の記憶として私たちの脳裏に刻まれているものがあります。鉄道発祥のヨーロッパでは壁面時計や時計塔が欠かせません。なぜなら各国をまたいで、標準時によって列車を運行していたからです。歴代の札幌駅にも時計がありました。3代目、4代目、5代目(北口)、どの駅舎の正面中央にも時計が掲げられていて、それが駅として当たり前のことだったのです。ですから、駅の記憶の最後の仕上げは時計でした。JRタワー正面中央、地上からの高さ33.5mに「星の大時計」が据えられました。外径7.2m、長針3.3m、短針2.2mと、国内最大級の壁掛け時計で、自前の太陽電池によって動いています。滝川出身の彫刻家・五十嵐威暢氏(元多摩美大学長)によるもので、モチーフには開拓使の五稜星が採用されています。

この大規模な複合商業施設の建設工事は、平成12(2000)年1月12日に全工区で着工となり、安全祈願祭が執り行われました。このときの直会(なおらい)では、札幌商工会議所会頭として義郎が乾杯の挨拶をしました。
建物の施工区分は、札幌駅総合開発株式会社発注の中層棟・高層棟(JRタワー)と、株式会社大丸およびレールシティー東開発株式会社発注の百貨店棟とに分かれていました。JRタワーの建築工事は、センター工区と東工区に2分割され2つのJVが担当。設備工事については電気、空調、衛生、昇降機それぞれで4つのJVとして分割発注されました。

伊藤組土建は、このうちセンター工区(中層棟)と大丸工区の施工を請け負いました。センター工区は地下3階・地上9階・塔屋1階で、建築面積8479㎡(全体1万4950㎡)、延床面積8万6654㎡(全体18万9770㎡)。センター工区においては、JV(清水、大成、伊藤組土建、大林、フルーアダニエル)の一員として参画しました。この工区は敷地面積6万5490㎡、中高層建物全体の直接基礎を含む地下2階部分から、駅のファサードを造り込む地上9階部分までを含む、東西に長い工区です。このため、地上を通るJRと地下を通る地下鉄の列車運行および現場と交差する南北4本の公共動線を支障しないという絶対条件のもと夜間に限定される作業も多く、24時間体制で工事を進めていきました。

大丸工区は敷地面積8520㎡、地下4階・地上9階・塔屋1階の方形の建物計画で、建築面積7850㎡、延床面積8万4597㎡。施工JVは竹中、大林、熊谷、伊藤組土建、鹿島、清水、戸田、札建でした。これらの工区においては、札幌駅周辺礫層にある多量の地下水処理が課題でしたが、伊藤組土建が過去に埋設したヒューム管(鉄筋コンクリート管)を探し出して創成側に放流するなど、工事進捗に大きく貢献するという場面もありました。

こうして実質2年半の工期を経て「駅らしい駅」の外観を目指した複合商業施設「JRタワー」、いわば6代目駅舎は誕生しました。施工期間中も営業しているJR・地下鉄・駅前広場・地下街・隣接の民間施設との接続調整を抱えた道内屈指の難工事でしたが、全て無事に完了。この開発施工に関わった方々への感謝のメッセージとして、センター4階北側外壁面に関係者約2万人の氏名が掲示保存されています。

JRタワー建設に先立つ平成17(2005)年10月1日、JRタワーの建設及び経営主体として札幌駅総合開発株式会社が創設され、JR北海道を筆頭に57社の出資が募られました。伊藤組土建株式会社及び株式会社伊藤組はここにも出資し、札幌駅大規模商業施設開発事業の当初から事業推進の一端に組してきましたが、その後両社の所有株は、平成19(2007)年4月の札幌駅総合開発株式会社による自己株取得に際して処分されています。

JRタワー(6代目駅舎)の全景(平成15年3月)

次回のコラムはまた大きく時代をさかのぼり、札幌駅が計画された背景についてご紹介します。開拓期の札幌にいま一度思いをはせ、そもそも札幌駅がどのような事情で設置されたのかを知ることによって、時代の変遷とともに変わってきた駅の役割について、そしてこれからまた新しくなる札幌駅に求めるものについて、皆さんそれぞれで考えていただく機会になれば幸いです。

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