ミライにつながる建設情報コラム

第4回 5代目駅舎|伊藤組と札幌駅

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日本が戦後の復興期から高度経済成長期へと移り変わっていくちょうどその頃、伊藤組土建は創業者・伊藤亀太郎の孫にあたる現在の取締役会長 伊藤義郎へと引き継がれます。昭和33(1958)年には北海道大博覧会が催され、昭和47年に予定されている冬季オリンピックの準備も始まって、札幌駅および札幌市内もまた大きな変化を迎えていきます。

4代目札幌駅舎複合建物増築中の全景

博覧会やオリンピックに向けて発展していく都市と交通

伊藤義郎は、昭和25(1950)年に大学を卒業するとすぐ、伊藤組土建や関連会社の役員に就任し、実践的に企業経営のノウハウを身につけていきました。その後、海外の大学院への留学を経て昭和31(1956)年に伊藤組グループ各社の代表取締役社長に就任。祖父・亀太郎や父・豊次と同じく満30歳にして経営のトップを担うことになったのです。

豊次の代に建てられた札幌駅4代目駅舎は、駅舎と商業施設のほかに国鉄総合庁舎も入居する複合ビルとして建設されていました。義郎が社長に就任した翌年の昭和32(1957)年、国鉄総合庁舎の第二期工事が完了し、4代目駅舎の西側が増築されました。さらに昭和33(1958)年には、札幌と小樽で催される北海道大博覧会に向けて駅舎1階部分を南側に張り出すように拡張。その後、南側駅前広場の地下部分にステーションデパートが増床され、4代目駅舎は徐々に規模を広げていきます。昭和39(1964)年になると駅北口が新設され、これと同時にステーションデパートを中心とする「北口ステーションストア」が開業しました。

国鉄総合庁舎の工事は第三期まで予定されており、こちらは昭和37(1962)年に着手。初めに屋上中央部分を5階建てとして、そこに札幌工事局事務所が設置されました。昭和40(1965)年にはこの5階の両脇に北海道支社および札幌工事局事務所をそれぞれ増築し、駅舎全体が5階建てとなります。これをもって、4代目札幌駅舎総合建物の工事が完了。札幌駅は、列車の乗降ばかりでなく買い物や映画鑑賞といった娯楽目的に足を運ぶ人でも大いににぎわうようになりました。

昭和41(1966)年の春、第11回冬季オリンピックの会場が札幌に決定。約6年後となる昭和47(1972)年2月の開催に向けて、市内のあちこちで競技場や選手村をはじめとした各施設の建設と交通網の整備が始まりました。開閉会式の会場となる真駒内には屋内外の競技場、大倉山や宮の森にはスキージャンプ台といったように、現在も活用されている施設が次々と誕生したのもこの頃です。また、市民の足として親しまれている札幌市営地下鉄が開業したのもオリンピックの恩恵といえるでしょう。真駒内にはオリンピックの大会運営本部も設置される予定でしたから、そこから北24条までを結ぶ地下鉄南北線の工事が昭和44(1969)年から急ピッチで進められました。南北を貫くルートは西4丁目通に沿って設計され、札幌駅との乗り継ぎの利便性も図ったため、札幌駅直下を貫通させる難工事となりました。国鉄用地内の地下鉄建設工事は札幌市から国鉄に委託されており、国鉄は札幌駅地下改札口を新設。この改札口と地下鉄さっぽろ駅とを連結する地下道の工事を、伊藤組土建が施工しています。このような過程を経て、開会式が間近に迫る昭和46(1971)年12月、札幌市営地下鉄南北線は開業にこぎつけました。

一方、地下改札口が新しくできたことによって、既存のステーションデパートのスペースは大幅に削減されてしまいました。これを受けて国鉄は、地下鉄関連工事と並行して駅前広場西側の未利用の地下開発に着手し、国鉄側2/3、民間側1/3の出資で「札幌駅地下ビル会社」を設立しました。国鉄側には鉄道弘済会、鉄道会館、日本食堂、みかどの4団体、民間側にはステーションデパートと伊藤組の2社がそれぞれ名を連ねました。地下街の構想は地下1階(一部2階)、総面積5058㎡、冷暖房完備という近代的なもので、これも伊藤組土建が施工。昭和46(1971)年1月に着工し、翌年3月「札幌駅名店街」として一部開業、同12月にほぼ全面開業を果たし、地元民・観光客問わず多くの人に親しまれるショッピングゾーンとなりました。

バスターミナル開設とエスタ&そごうの開店

4代目駅舎の開業後、札幌駅前東側の大きな敷地には国鉄バス札幌営業所があり、数十台のバスが留め置かれていました。また、駅前の北5条通り沿いには国鉄バスの停留所があるのに加えて路面電車も走っており、このあたりの道路交通はひどく混雑していました。このため、昭和38(1963)年に札幌商工会議所会頭から札幌鉄道管理局長にあてて、国鉄バス札幌営業所用地の高度利用を促す陳情が寄せられています。つまり、バスターミナルを新設してほしいと訴えたのです。この頃、「主要駅前の国鉄用地は都市の玄関口としてふさわしい有効活用を図るべし」とする要請が全国でも高まっていたことから、昭和46(1971)年に「日本国有鉄道法」が改正され、国鉄は、旅客駅と一体的に設けられる店舗・事務所棟を建設・運営する会社に出資できることになります。この法改正によって、札幌駅前東側の国鉄用地にバスターミナルを併設したショッピングビルの建設計画が固まり、キーテナントが「そごう百貨店」に決定しました。この駅ビルの建設・運営主体として、昭和50(1975)年に「札幌ターミナルビル株式会社」が発足し、資本金10億円のうち国鉄が5億円、札幌市が1億円を出資。残りは民間から工面し、公共が主体となって計画が進められていきました。
地上10階、地下3階となる駅ビルの敷地面積は1万2977㎡。床面積にすると、ビル部分は8万5700㎡、地下街部分は4700㎡となります。駅ビル建設には伊藤組土建も関わっており、地下街の一部、鉄筋コンクリート造地下1階の工事を単独受注しました。完成すれば、1階にバスターミナル、2階~9階に百貨店、10階に飲食店、地下1階および地下街に物販と飲食の店舗が入る大規模な商業施設となります。また、この建物は道内初の駅ビルでもありました。愛称は公募によって「エスタ(ESTA)」に決まり、昭和53(1978)年9月1日に「エスタ名店街」「札幌そごう」が開店。同時にバスターミナルも稼働を開始したのです。

急増した踏切事故対策として進められた高架化工事

戦後の復興と目覚ましい経済成長は、一方で交通事故の激増をもたらしました。特に、昭和20年代後半から30年代前半、自動車の交通量と列車本数が増加したことによって急激に増えたのが踏切での大事故です。昭和36(1961)年、このような事故の対策として「踏切道改良促進法」が施行され、連続立体交差化が推進されるようになりました。連続立体交差による鉄道の高架化が全国で初めて実現したのは、昭和48(1973)年に開業した宗谷本線の旭川高架。道内2番目として昭和55(1980)年に開業した千歳線の千歳高架が続き、函館本線・札沼線の札幌高架は道内3番目に位置付けられます。札幌高架は、昭和39(1964)年に札幌市長が国鉄総裁に対して鉄道高架化の陳情を行ったのをきっかけに協議が進められ、昭和51(1976)年12月に都市計画決定。高架化区間は函館本線7km150m、札沼線は2kmと定め、これに伴って廃止された踏切は、函館本線で16カ所、札沼線で3カ所でした。高架化によって南北方向の道路交通が円滑化され、また旧来の跨線道路橋や踏切を廃止したことによって中心市街地の平面性・一体性が著しく高まりました。さらに、高架化後は駅周辺や鉄道北側の市街化も大きく促進されていくことになるのです。

札幌高架工事

高架上でスタートを切った札幌駅5代目駅舎

札幌駅付近高架化工事は昭和56(1981)年に着工し、昭和63(1988)年11月3日に桑園・琴似両駅が全面開業。前年の昭和62年(1987)年に国鉄分割民営化が施行され、「北海道旅客鉄道株式会社」が発足しています。昭和63(1988)年当時の札幌駅は高架敷地という制約があったため、2~5番ホームおよび仮ホームに範囲を絞って稼働する一次開業という段階ではありましたが、これをもって4代目札幌駅舎から5代目札幌駅舎へとバトンタッチしました。このあと札幌駅南側の旧旅客上家(ホームの屋根部分)やホームなどの撤去工事が始まり、残った1面2線(1・2番線)の高架橋を継ぎ足す工事を完了してから、ダイヤ改正と併せて平成2(1990)年に全面開業しました。完成した駅舎の旅客設備は、北側の留置線1線のほかプラットホーム5面に本線10線。駅本屋は高架下地上1階部分に配置され、駅部全体としては高架下2層式鉄筋コンクリート造、床総面積は約1万5000㎡。4代目駅舎と比べると約3.5倍にまで拡大しました。また、地上1階の中央部には改札口内コンコースと駅業務施設を集約し、この東西にそれぞれ改札口外コンコースを配置。幅員30mの東コンコースと同20mの西コンコースの位置を、札幌駅によって遮断されている西3丁目通と西4丁目通の軸線にそれぞれ合わせることで南北方向の歩行動線を確保し、歩行者が駅舎内をスムーズに通過することができるようにしました。

伊藤組土建は、札幌高架橋と同時期に建設されていた市営地下鉄東豊線に関わる工事を国鉄から単独受注していました。東豊線のルートは在来の函館本線の地下を横断するため、当時西2丁目通に設置されていた踏切の下に地下鉄が通る道を作るという内容です。踏切を通る列車や車、人などに影響を及ぼさないよう、初めにパイプルーフという工法を用いて地中へ鋼管を埋設することによって線路群を受け支え、踏切前後の開削部分を合わせて長さ約100mの地下鉄函体の施工に当たりました。また、昭和58(1983)年から約2年にわたったこの工事と関連性があったため、昭和60(1985)年8月着手の「札幌高架西2工区BLI(基礎)」工事も受注。これを皮切りに、平成2(1990)年4月着手の「同 BL12(仮土留)」工事までの間、札幌駅部の高架工事を請け負い、さらに札幌高架一次開業直後には、前述した旧4代目札幌駅旅客ホーム等の撤去も担当しました。

5代目駅舎(高架駅)の外装は、南側と北側で趣きがやや異なっていました。平成2(1990)年の全面開業時に完成した南側は、将来的に新幹線が増設されるため採光窓のみの機能的な壁面に。北側のデザインは、JR北海道建築陣の周到なワーキングにより一番最後に仕上げられました。ここは札幌駅北口再開発の、いわばランドマークとなるべき部分。中央トップに掲げられた円形の時計を中心に、大きなガラス面をうまく配置することで描かれたのは3代目札幌駅舎のシルエットでした。3代目札幌駅舎は洋風の建築様式を取り入れ、当時の札幌で「もっともハイカラな建物」として知られたことはコラム第1回でご紹介した通り。これをモチーフにすることで、新旧の調和と発展・躍動のリズム感を表現した含蓄のあるデザインでした。また、俯瞰すればこのシルエットが札幌の山並みと重なっているようにも見え、自然との調和を図っていたことにも感服します。札幌高架工事は昭和56(1981)年に始まった高架橋工事から10年、建築工事着手から数えても6年という長丁場でしたが、ようやく「5代目駅舎の顔」とである札幌駅北口の工事が終わったことで完了し、平成3(1991)年12月27日に開業セレモニーが行われました。

高架開業後は旧駅舎がJR北海道本社屋として残ったため、1階の旧駅舎部分と新高架駅の間の線路跡地に仮設コンコースが設けられ、暫定的に接続されました。このあと、土地区画整理事業によってJR北海道本社屋は桑園へ移転。4代目駅舎は撤去の時を迎えます。この工事も伊藤組土建が単独受注し、平成7(1995)年11月から翌年7月の工期で施工しました。豊次が注力して建設した4代目駅舎の撤去工事を息子の義郎が請け負ったことに、時の流れとともに深い縁を感じます。

5代目札幌駅舎北口の全景

次回のコラムでは、いよいよ現在の6代目札幌駅舎が登場します。南口、北口を含めた大規模な再開発を進めるにあたって、行き交う人々の記憶を内包する「駅」を不変の存在として引き継いでいくにはどうしたらいいのか。ただ「建物を造る」だけには留まらない再開発構想を土台に据えた建設の背景を知れば、今また変わりゆく札幌駅の姿に、ますますの愛着をお持ちいただけるかもしれません。

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