ミライにつながる建設情報コラム

第2回 4代目駅舎①|伊藤組と札幌駅

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伊藤組は創業者・伊藤亀太郎から息子である伊藤豊次に引き継がれます。大正から昭和にかけて、鉄道敷設が最盛期を迎えた北海道。豊次の下で伊藤組もまた、鉄路を延ばす事業に数多く携わりました。

「伊藤組の頭脳」による厳しい指導に堪えた2代目・豊次

初代・伊藤亀太郎が明治26(1893)年5月に伊藤組を創業した翌月、長男として生まれたのが2代目の伊藤豊次です。豊次が幼い頃の亀太郎は旭川第七師団の建設現場へ出ずっぱりで常に忙しく、また元々家庭を押して仕事に打ち込むタイプであったため、豊次にとってはやや近寄りがたい父親であったようです。しかし、そんな父の背中を見て育つうち、いつしか畏敬の念を抱くようになり、豊次は後継者となることへの自覚を深めていきました。明治45(1912)年に札幌尋常中学校(現在の札幌南高等学校)を卒業後、肺結核に感染して進学を断念しましたが、闘病生活を終えた20歳の豊次は父の仕事を継ぐことを決め、一店員としてほかの従業員と現場を回り、寝食を共にしました。

店員時代の豊次に会社経営のすべてからトップとしての心構えまで叩き込んだのは、最古参幹部の田中銀次郎。後に独立し、田中組を創業した人物です。田中は島根県出身で、明治25(1892)年頃に亀太郎と知り合い、事業家としての才能を見出されました。伊藤組へ入社したのは明治30(1897)年。それからは亀太郎の片腕として腕を振るい、「伊藤組の頭脳」とまで評された逸材です。亀太郎はこの田中を、豊次の指南役に指名しました。

田中の指導はとても厳しいものでした。亀太郎に成り代わり、「獅子の子落とし」の心境で豊次に相対しました。当時の豊次にとっては辛いことも多かったといいます。田中にしてみれば、亀太郎の本意に応えて2代目を立派な後継ぎとするには自分が鬼となって叱る以外に方法はなく、豊次が一人前の経営者へと成長した姿を見届けたら、采配に支障がないよう自らは会社を去るほどの覚悟もしていたものと想像されます。

大正12(1923年)年1月、豊次は満30歳で伊藤組を引き継ぎ、2代目店主に就任しました。亀太郎には同じ30歳にして独立・創業を果たしたという自負もあり、また60歳になった自身の体調面も考慮した結果、この時を代替わりのタイミングと考えたのでしょう。同じ年の4月には、亀太郎が旭川大七師団の建設に携わった縁で陸軍技手の娘と結婚し、職業人としても社会人としてもすばらしい人生の門出を迎えました。

ニ代目社長 伊藤 豊次

伊藤豊次の店主就任と時代の移り変わり

伊藤組2代目店主に就いた豊次が真っ先に行ったのは、従業員向けに配布する「組報」の発行でした。大正12年1月27日付の「組報」第1号には、次のような記述があります。「出張所、木工所其他店内登る店員の為めに店の重要な出来事や人事を知らせ連絡を執る為めに此組報(不定期)を配布します。店員にのみ店内にて見せ持出すことを禁じます」。組報に掲載されたのは、伊藤組が応札した工事の入札結果報告・出張者・入退店者・人事異動・結婚者・年末の店員配置一覧といった内容でした。新しく店主に就任した2代目が初めにやったことが組報の発行とは、当時の従業員たちも驚いたことでしょう。しかし同時に、組報を通じて従業員たちに語りかけようとする新しい経営者の姿を感じさせました。豊次が従業員に経営情報を開示することにしたのは、そもそも父・亀太郎が築いてきた信頼関係の「見える化」を図ったためです。そこには伊藤組創業以来の家族主義的な組織のありようも表れています。豊次がほかの従業員と寝食を共にした店員時代と同じように、経営者となってなお従業員と共に生きる「誠心誠意の人」であったことを象徴するエピソードです。

豊次が2代目店主に就任した年、大正12(1923)年9月1日に関東大震災が発生しました。家屋全焼38万戸、全半壊17万5000戸、死者・行方不明者10万人という未曽有の大災害です。これを受けて、伊藤組は同年11月に東京・芝浦に東京出張所を設置。北海道の各木工場から木材を直送で取り寄せ、北海道庁の命を受けてバラック建設や民間工事への協力に当たり、国難の対応に尽力しました。組報第九号(同年10月19日付)では、震災復興に向けて東京方面からの木材注文が殺到している様子が「木材」欄の数字に表れています。東京出張所は復興事業に一区切りついた大正14(1925)年に撤収しました。この頃の伊藤組は、明治42(1909)年に設置した旧苗穂村(現在の札幌市中央区北3条東8丁目)の製材工場を皮切りに、浜頓別、函館、苗穂第2工場、札幌(南5条東1丁目)で木材事業を展開していました。

亀太郎は50歳を迎える大正2(1913)年頃から体調を崩すようになり、翌年から糖尿病によって視力も徐々に悪化していきました。そのような中で、豊次へ社業を円滑に引き継げたことは、「創業以来苦楽を共にしてきたたくさんの従業員も、これでまたやっていけるだろう」と、亀太郎自身を安堵させたはずです。その後、病を背負いながらも悠々自適に暮らし、亀太郎は第二次世界大戦中の昭和19(1944)年6月にこの世を去りました。享年82歳の大往生でした。

初代社長 伊藤 亀太郎

利用者本位のサービスが軍事輸送の手段へと変貌

豊次が会社を引き継ぐ前年の大正11(1922)年、日本の鉄道事業は開業50周年を迎えました。軍部の強い意向を反映して官営の全国鉄道網が整い、大正9(1920)年には鉄道院が鉄道省に格上げされて最大の国営組織となっています。

鉄道省は路線改良や電化、車両の開発、重軌条化、列車増発、速度向上などに取り組み、大幅な輸送力向上を図りました。1910年代~1920年代の日本は、いわゆる「大正デモクラシー」という民主主義的な社会風潮にあって、鉄道省も官営体質を改めて利用者本位の輸送サービス向上に努めていたということが背景にあります。旅客・貨物の積極誘致、小型機関車による小単位列車の運行なども実施され、きめ細かな輸送が実践されていた鉄道省時代は、日本鉄道史の中でも「黄金期」と呼ばれ、世界最高水準の鉄道システムを作り上げたのです。

一方、鉄道経営は、第一次世界大戦以降、関東大震災や昭和5(1930)年の世界恐慌によって慢性的な不況下にありました。昭和12(1937)年に日華事変が始まると、鉄道は戦争遂行のための輸送体勢を強いられることに。敗戦色が濃くなると、疎開を除く一般の旅客輸送は禁じられましたが、鉄道の運行が止まることはありませんでした。車両は長年の戦争のために整備ができず、米軍の空爆により全国の鉄道施設は大きな損害を受けましたが、使える車両を連結し、爆撃を受けた線路をつないで、戦時下でも蒸気機関車が走ったのです。終戦時の鉄道はもはや満身創痍。そこに戦後処理と復興のための輸送負担が待ち受けていました。終戦直後の復員兵約66万人、引き上げ邦人約134万人、外国人送還約100万人に大量の進駐軍、さらに学童疎開の復帰や食料買い出しなど、かつてない輸送量でした。

戦後の昭和24(1949)年6月、「国鉄法」改正によって鉄道組織は公共企業体として運営されることになり、「日本国有鉄道」が発足しました。鉄道省から国鉄へと移行しても、鉄道の設備投資は引き継がれ、昭和29(1954)年1月に青函海底トンネル着工、同31(1956)年に東海道本線全線電化が実現しました。

大正期から昭和中期までの鉄道事業と伊藤組

北海道の幹線鉄道網は明治末期にはほぼでき上がっていましたが、その後も既存の鉄道網の拡充整備が行われ、併せてローカル線の建設も進んでいきました。道内の鉄道建設工事がピークを迎えたのは大正10(1921)年から昭和5(1930)年頃。大正11(1922)年に公布された「改正鉄道敷設法」では「全国民に鉄道の恩恵を均しくする」とうたわれ、同法交付時に敷設が予定されていた支線は149もあり、うち22路線が北海道内のものでした。

大正期の北海道には官設鉄道が数多く建設され、伊藤組は駅本屋や駅舎に付随するさまざまな建物、機関庫、跨線橋など全道でたくさんの工事実績を残しています。また、私設鉄道では北海道鉄道株式会社の苗穂-沼の端間、定山渓鉄道株式会社の白石-定山渓間などの土工やその他工事を請け負いました。この中で特に大きな仕事だったのは、大正14(1925)年に北海道鉄道株式会社(明治40年に国有化した鉄道会社とは同名他社)による札幌線新設工事。現在の千歳線苗穂-沼ノ端間の敷設事業で、伊藤組は土工橋梁工事のほかに大量の枕木の納入も請けています。その後、東札幌停車場のさまざまな建物、月寒停車場の新築、恵庭駅乗降場上屋新設などの追加工事も受注しました。当時札幌線は、苗穂-東札幌-月寒を経て北広島へと至る路線でした。昭和48年に苗穂-北広島間のルートが変わって現在の千歳線になっていますが、伊藤組は道内重要幹線である千歳線の建設にも足跡を残しているのです。

昭和期に入ると、札沼線、日高線、北興浜線などで数多くの受注がありました。札沼線は沼田側と桑園側とに大きく分けられ、伊藤組は桑園側5工区のうち3工区を単独受注。工区内の土木工事と各駅舎・官舎の新築工事のほか、札沼線最大となる石狩川の架橋工事を担当しました。鉄道橋としは当時国内で3番目の長さ、道内では現在でも最長を誇っています。

駅舎関連では、昭和3(1928)年~5(1930)年の函館駅構内改良工事、同9(1934)年の小樽駅建て替え工事を行っています。初代の小樽駅は亀太郎が請け負い、明治36(1903)年に開業した北海道鉄道株式会社の小樽中央駅でした。この駅はその後「稲穂」「高島」「中央小樽」「小樽」と改称され、初代駅の改築を経て、伊藤組が現在の3代目小樽駅に建て替えたのです。「坂のまち」で知られる小樽は土地の高低差が大きいため、盛り土をしたり、設計を工夫したりといろいろな難関があったようです。現在の小樽駅の1階の床と構内の地盤の高低差をつなぐ階段が、工事に関わった人々の苦労を物語っています。

札幌では、大正から昭和にかけて札幌北部の人口が増えたために、西5丁目踏切の交通量が増加。列車の本数も増えたため周辺で渋滞がしばしば起きていました。これを解消するため、昭和6(1931)年、国鉄は札幌市と共同して鉄道をまたぐ道路橋の建設を計画。これも伊藤組が単独受注し、翌年12月には「札幌市北六条西五丁目跨線道路橋」が完成しました。昭和63年には鉄道高架化に伴って撤去されてしまいましたが、この跨線橋を覚えている方もおられるのではないでしょうか。

札沼線石狩川橋梁桟橋

鉄道も、札幌のまちも、そして伊藤組もここからさらに発展していきます。次回はいよいよ”民衆駅”として建て替えられた4代目札幌駅舎誕生の背景に迫ります。今なお多くの道民の思い出に残る「ステーションデパート」も登場し、これまで以上に人が集まる駅舎へと生まれ変わっていくストーリーにご期待ください。

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