ミライにつながる建設情報コラム

第1回 初代~3代目駅舎|伊藤組と札幌駅

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令和12(2030)年度の北海道新幹線札幌開業を目指し、JR札幌駅周辺は今、新たな姿へと生まれ変わろうとしています。「札幌の玄関口」として、また、JRタワーをはじめとした大規模複合施設として、観光客にも市民にも親しまれている現在の駅舎は6代目。「え、そんなになるの」と驚かれる方も、「そういえば昔は…」と、かつての駅舎を懐かしく思い出される方もおられることと思います。

実は、伊藤組と札幌駅との間には浅からぬ縁があります。伊藤組は、明治41(1908)年に落成した3代目駅舎から現在の6代目駅舎まで、4つの「札幌駅」の建設を請け負ってきました。そして今また、私たちは北海道新幹線の延伸工事や札幌駅周辺の再開発を通じて、札幌駅の”未来”を創る事業に携わっています。

まちを象徴するといってもいい駅周辺の風景が変化しつつあるこの機会に、100年を超える札幌駅と伊藤組の物語を、皆さんにご紹介したいと思います。

2023年現在の札幌駅

北海道初の鉄道とともに生まれた札幌駅

札幌駅が初めてできたのは明治13(1880)年。北海道初の鉄道である官営幌内鉄道が小樽手宮-札幌間で一次開業したのに伴って、「札幌仮停車場」として建てられたのが初代の駅舎です。北海道行政資料課が所蔵する「明治14年の札幌地図」によると、札幌仮停車場の建物は現在の西4丁目通と函館本線の線路が交差するあたりにあったと思われます。この駅舎は木造本屋11坪、荷物庫28坪、石炭庫、水槽および機廻り線(機関車を付け替えるために敷かれた線路)だけで構成される施設で、駅業務と列車の折り返し運行のために必要な最低限の設備であったと伝えられています。本屋の広さから考えると、乗車賃取扱窓口を設けた程度の簡易な駅事務所だったことが想像されます。

2代目駅舎となる札幌駅は、明治14(1881)年、明治天皇北海道行幸のすぐあとから工事が始まり、翌年1月に完成しました。仮駅木造本屋の東隣、北5条西3丁目街区に建てられた新駅舎は広さ72坪。荷物庫、石炭庫を新築し、さらに転車台、機関室、列車室なども整備したほか、別棟として貨物の取扱事務所を設置しました。幌内鉄道は石炭輸送を目的としていたためこの当時はまだ旅客も少なく、駅舎も小規模。建物の北半分は天井を張らず屋根まで吹き抜けにしてありました。この屋根が本線と副本線の2本の線路にまたがって架かり、雨除けとなっていたのです。

2代目駅舎が開業した翌月、明治15(1882)年2月に北海道開拓使は廃止となりましたが、同年11月に小樽手宮-幌内間が全通したことにより、北海道開拓事業の柱である幌内炭鉱の石炭輸送ルートが完成。2代目駅舎はその後26年にわたって使用され、札幌の街の原風景として当時の市民の記憶に長く刻まれました。

2代目札幌駅舎

創業時から縁で結ばれた鉄道事業

伊藤組創業者・伊藤亀太郎は新潟県出雲崎の出身で、代々大工の家系でした。北海道へとやってきたのは、20代の初め。折しも小樽や札幌では町の整備事業が盛んに行われていた時代です。小樽で土木工事請負業者小林茂三郎に見込まれた亀太郎は帳場を任されるほどの信頼を得て、小林が札幌出張所を開設した際には代人に任命されることに。明治26(1893)年にはその役目を務めつつ、みずから土木建築請負業を興し、札幌で独立創業も果たしました。これが伊藤組の始まりです。

小林が鉄道建設工事を請け負っていたつながりで、亀太郎も創業当初から鉄道工事を手掛けることになりました。今思えば、この時すでに北海道の鉄道と伊藤組との間に縁が結ばれていたのです。前年の札幌大火で多くの家々が焼失して新しい建設の力が求められた一方、翌年に日清戦争を控えた慌ただしい世相。まさに黎明期の新天地で伊藤組はスタートを切りました。

創業以来、道内で官設鉄道および私設鉄道の伸展に伴って多数の鉄道工事を請け負いましたが、明治30年代後半から40年代にかけては鉄道以外の受注規模が拡大していきました。明治34(1901)年には小樽区役所、同35(1902)年には函館区役所、同42(1909)年には札幌区役所と、当時の道内3大都市の要となる建物の建設を次々と実績にしています。札幌では同30年代後半から40年代初頭にかけて、元請の篠原要次郎とともに札幌農学校新校舎を受注し、図書館を担当。その後、寄宿舎も単独受注で手がけました。これ以降も北海道庁本庁舎の修復工事や札幌郵便局新築、稚内大火後の官公庁復旧工事など全道各地でさまざまな仕事を任され、その実績と伊藤組の名は道内業界でよく知られるものとなりました。

明治38(1905)年、日露戦争に勝利した日本は樺太の割譲を受け、樺太守備隊の駐留施設建設を急ぎました。明治39(1906)年、亀太郎は官給品を除き総額50万円余の大工事を一社特命で受注し、樺太守備隊基地の建設に当たりました。樺太では軍事施設以外にも、樺太豊原支庁庁舎、樺太長官官舎、樺太郵便局、樺太神社などを建設。明治44(1911)年頃には京城(現在のソウル)にも出張所を開設しました。亀太郎は40代の壮年期、北海道内だけでなく樺太や朝鮮半島でもその手腕を振るったのです。

意気軒高の亀太郎は、明治40(1907)年に半分を焼失した札幌駅の新築工事に応札。愛用していた手帳には、明治41(1908)年7月9日の欄に「札停落札ス」とだけ記されています。創業から15年、鉄道工事の実績を積んできた伊藤組でしたが、3代目札幌駅舎の新築は、鉄道建築工事としては最大規模の仕事でした。

「札幌でもっともハイカラ」な3代目札幌駅舎

2代目駅舎の被災直後、駅業務は最寄りの保線区内に設けた仮停車場へと移転しましたが、当時の札幌の人口は6万6千人。明治13(1880)年の開業当初と比べると7倍以上です。輸送量が増えて駅舎に増改築を重ねても対応が追い付かず、建物も陳腐化してきたところに、火災がある意味追い打ちをかけ、新たな札幌駅舎が望まれる頃合いでもあったのです。

伊藤組は7月9日に3代目駅舎工事を単独で落札。2代目駅舎の撤去工事から着手し、同年12月5日には3代目となる新駅舎が落成したのですから、当時の伊藤組の施工能力がいかに高かったか窺えます。

3代目駅舎は、1階の正面中央にアーケード調の出入口を構え、中央部分は2階建て、真ん中のややせり出した部分にはマンサード屋根(四方に向けて2段勾配を採用した屋根)を配置。1階は東西に両翼を伸ばし、どちらも切妻壁(上部が三角形もしくは三角に近い形の壁)が突き出す左右対称のデザインとし、コリドール(=回廊)調の軒先、勾配のある屋根面から垂直に立ち上がるドーマー窓、外壁には柱や梁、筋交いなどをあえて見せる北ヨーロッパのハーフ・ティンバー方式など洋風の建築様式を多数取り入れ、当時の札幌で「もっともハイカラな建物」といわれました。

設計は古川源二郎とされていますが、実は明治36(1903)年1月、日本鉄道会社により建築された2代目水戸駅(常磐線)を模したもの。当時の最新鋭の建築技術を導入した水戸駅のデザインを転用した形です。明治39(1906)年に「鉄道国有法」によって日本鉄道会社や北海道炭礦鉄道会社など私設鉄道会社17社が買収されており、この時は札幌駅も水戸駅も同じ官営鉄道の系列となっていたので問題なかったのです。2代目札幌駅舎の焼失も不測の事態であったため、急遽水戸駅の重厚なデザインを採用したという背景もあったのだろうと推測されます。同時に、この時期の日本は明治政府が目指した富国強兵を成し遂げ、日清・日露戦争の勝利でアジア唯一の列強を自認していた頃ですから、水戸駅の重厚さを採用して官営鉄道の威厳を醸しだそうという設計意図もあったのかもしれません。

3代目札幌駅舎は2代目水戸駅舎とそっくりの外観になりましたが、規模は異なりました。3代目札幌駅舎は線路方向の柱スパンを増やして床面積を大きく取っています。平面図が残っていないので詳細は不明ですが、言葉での説明は伝えられています。「駅正面から中に入ると広い待合空間で、突き当り壁側に出札口がある。左手側に3等待合室、右手側に1、2等待合室が配置されている。両翼部分の左側は手小荷物の取扱所で、右側に駅長事務室・駅員室が置かれている。二階には駅事務室などがあった。延床面積は838坪(2765㎡)であった。駅舎と合わせて線路設備も増強され、3列の乗降場を新設し、札幌駅の高まる受容に対応する設備を整えた。」…今となっては、2代目水戸駅舎の平面図を参考に想像するほかありませんが、3代目駅舎の外観であれば、縮小・復元した姿を「北海道開拓の村」で見ることができます。

「北海道開拓の村」は道立自然公園野幌森林公園の西北部にあり、40棟もの明治期・大正期の建物を復元整備した野外博物館です。この入り口に建つ管理棟は、3代目札幌駅舎の外観を8/10スケールで再現しています。北海道野幌森林公園事務所の発注により、施工は伊藤組土建(伊藤組)が行いましたが、明治時代の図面が残っておらず、写真から詳細な立体図を起こすことになりました。建物寸法は、間口長さ52m、高さ約15m。縮小したとはいえなかなかの大きさです。実物は木造建築でしたが、管理棟の外壁はベニヤ型枠コンクリート打ち放しで吹き付けタイル仕上げ。屋根は鉄筋コンクリートスラブ上に木造置屋根を組み立て、カラーステンレス葺きにしてスチール製の屋根飾りを付けました。窓は実物の木製上げ下げ窓をカラーアルミサッシュで模造したものです。カラーステンレスの赤い屋根が映え、横羽目板の線もくっきり表れて、まるで木造で再現したかのような仕上がりとなっています。3代目駅舎は、歴代の札幌駅舎の中でも最も威厳があるといわれた建物です。精密に復元されたその姿を、ぜひ「北海道開拓の村」でご覧ください。

3代目札幌駅舎

札幌駅とともに近代的な景観をなした旧本社屋

3代目札幌駅舎落成から4年後、明治時代は終わりを迎え、大正時代へと移り変わりました。大正期の北海道は鉄道建設や民間建築が盛んで、大正7(1918)年には開道50年を迎えて北海道博覧会が催されました。この博覧会でも、3会場のうち主会場(第1会場)を亀太郎が落札・施工しています。

この頃になると亀太郎は事業を息子・豊次へ引き継ぐ準備を進めていました。手狭になった事務所の移転を決めたのも、事業承継の一環だったといいます。新しく本社屋を構えることにしたのが、札幌駅前の北4条西4丁目。今まさに、伊藤組土建の本社ビルが建っているところです。自社ビルだけに伊藤組の総力を挙げて建てられた本社屋(現在からみると旧本社屋)は大正6(1917)年に基礎工事を終え、同7(1918)年末に完成しました。亀太郎の悲願でもあった「伊藤組の城郭」。これを機に、正式に「伊藤組」を名乗ることも決めました。

旧本社屋は建坪102坪、階高(一層分の高さ)を高めに造った総2階建て一部平屋の洋館。重厚な雰囲気を漂わせ、人々の目を奪う建物でした。腰高に札幌硬石を積み、木造様式の寄棟マンサード屋根の端正なデザインが、3代目札幌駅舎とともに駅前通りに近代的な景観を作り出しました。大正8(1919)年1月13日に北海タイムス紙面に掲載した移転広告には、移転先を「札幌停車場前伊藤組事務所」と記しています。

伊藤組 旧本社屋

次回はいよいよ伊藤組が代替わりし、2代目の伊藤豊次が会社を引き継ぎます。関東大震災や第2次世界大戦といった激動の時代を乗り越え、高度経済成長期を目前にした伊藤組と、20世紀モダニズムを体現する4代目札幌駅舎の誕生をご紹介しますので、どうぞお楽しみに。

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